本学の教育理念は、「カトリック精神に基づく人格教育を行い、有為な人材を育成する」ことです。
本学の建学の精神は、鹿児島純心女子学園の創立者江角ヤス先生が理想とされた「聖母マリアのように神様にも人にも喜ばれる女性の育成」です。
これはイエス・キリストの母聖マリアを理想と仰ぎ、現代に生きる若者が自他の命の尊さを認識し、他者の幸せのためにという精神をもって行動することを意味します。
本学は、教育理念と建学の精神に基づき、豊かな人間性に裏打ちされた高い知性と専門性をそなえた女性の育成、すなわち「いのちを育む知性と愛」を一人ひとりの学生のうちに育み、以下の1〜3の人間像を目指すことを教育目的とします。
そして、このような教育目的を日々実践するために、「マリアさま いやなことは私がよろこんで」という江角ヤス先生のことばを学園標語としています。
本学は、高等教育機関としての水準の向上に努めつつ、多様な職業に対応できる人材の育成を図るとともに、高度な専門的職業人の育成を目指します。そして、そうした専門教育の基盤となる総合的教養教育を強化し、豊かな人間性の育成に努めます。
このため、カリキュラムの基本は、豊かな人間性を培うための「基礎教育科目」と、自他の真の幸せのために与えられた能力を十分に伸ばし、社会に貢献できる高いレベルの「専門教育科目」の二つの柱があります。
また、地域の生涯学習の拠点として、教育と研究の一体化を図り、産学連携、国際交流、地域貢献の拡充に努めます。
鹿児島純心女子大学は、平成6年4月学校法人鹿児島純心女子学園の新しい高等教育機関として設立され、本学園の教育理念に、かねてから深い理解を持ってこられた旧川内市の並々ならぬご協力の下に、この山紫水明の地に歴史の一頁を開いたものです。地域と共に生き、地域文化の一端を担いつつ、人類の幸福と世界平和のために、大きな光となるべく女子高等教育機関としての門出を果たしたのです。
私たちは常に大学の意義を自らに問いつつ、その果たすべき今日的使命の遂行に力を一つにして前進することを強く求められています。
人生にはいくつかの節目があります。大学入学はその中の大きな節目です。この大学を選んで入学してきたみなさんはいま、その大きなエポックを迎え人生の新しい門出に立っているのです。
大学とはいったい何をするところでしょうか。当たり前すぎることなのですが、「大学入学」という新しい人生の門出に当たって、まずこの問いを自分白身に投げかけてみる必要があります。大学は言うまでもなく学問をするところです。真理を探求し、高度な専門的知識を身につけるところです。
それでは、学問とか真理とか知識とは何でしょうか。それは、人間の心や体について、人間の言葉や文化について、自然や社会のしくみ等々についてたゆみなく探求しそこに隠されている法則や原理を体系化したものです。大学は、それらの原理を学び発見することによって、人間にとってどのような世界を創り上げていけばよいのかを探求しつづける教育・研究の組織です。そして究極的には、生きるとはどういうことなのか、社会にどのように貢献すべきかを問いつづける学府なのです。
したがって、そのような真理の探求をつづける営みは、たださまざまな知識を積み重ねていけばよいというものではありません。上に述べたように、「何のために‥‥」とか「どのような人生観・世界観に基づいて‥‥」といった問いを持たないまま知識を積み重ねるだけでは意味がありません。「生きる」という視点のないそんな学び方からは、みなさんが社会に出た時、真に「生きて働く力」にはならないでしょう。大学とは、人類・社会のために、真に生きて働く力となる学問を求めつづけるところなのです。そしてまた、みなさんの自主的な学生会活動や文化活動、体育活動、ボランティア活動なども、その学問を豊かにするための人間形成の営みなのです。
それでは、鹿児島純心女子大学は、どのような理念に基づいて教育・研究をすすめていく大学なのでしょうか。
鹿児島純心女子大学の教育理念は、「カトリック精神に基づく人格教育を行い、有為な人材を育成する」ことです。
カトリックとは、神の愛に基づいた普遍的 (Catholic) な愛の教えを意味する言葉です。要するに、キリスト教の信仰に基づく愛の教えを意味する言葉です。そしてその愛は、何びとをも差別せぬ人間愛であり隣人愛です。
私たちの大学の属する「鹿児島純心女子学園」は、いまから70余年前の1934年、日本人で最初の司教となった早坂久之助司教によって創設され、シスター江角ヤス先生がその初代会長の任に就かれた「長崎純心聖母会」がその母体となっています。これは、聖母マリアを理想の女性と仰いで愛の灯を掲げた、日本人によるはじめての教育女子修道会です。そのシスター江角がこよなく愛した言葉があります。「マリアさま いやなことは私がよろこんで」という言葉です。この短い教えは、保育園・幼稚園及び中学校から大学院までを擁するこの学園において、きわめて日常的な日々の生き方の指針すなわち実践目標となっているものですが、味わえば、深い人間認識と高い教育の理想が潜んでいることに気づきます。
人間は、いまここに苦しい仕事と楽な仕事がある時、つい楽な方に気持ちが動き、苦しい仕事を避けようとします。そんな誘惑のようなものが胸をよぎります。それが普通の人間の姿とも言えましょう。人間とはそんな弱い存在なのです。その人間の姿をじっと見つめ、それを乗り越えていこうとする一つの祈りがこの言葉の中にこめられています。嫌な仕事は私にやらしてほしいという隣人への思いがこめられています。一人一人のその思いが人類と社会を幸福にします。そのような愛の裏打ちのない学問研究をどんなに積み上げても、それは決して、人間と向き合うことにはならず、「生きて働く力」にはなりません。優れた「人間力」にはなりません。すなわち、神からも人からも愛され、世界に光をもたらす学問にはなりません。鹿児島純心女子大学が掲げる教育理念は、このような、人間愛・隣人愛に裏打ちされた、全人的な人間形成をめざしています。
1945年8月、私たちの姉妹校である旧制長崎純心高等女学校 (現長崎純心女子高等学校) は、一瞬のうちに原爆の閃光に焼かれ、210余名の若い命と教職員を失いました。その悲しみに打ちひしがれて校長職を辞そうとするシスター江角のところに、十代の短い生涯を閉じた娘たちの遺族から、「娘は祈りながら、歌いながら清らかな最期を遂げました」と、次々に便りが届いたのでした。失意のどん底にいたシスターの胸はそれらの言葉につき動かされました。泉のように生きる力が湧いてきたのでした。その思いが溢れ、廃墟の中から学校の復興がなし遂げられ純心学園が見事に蘇ったのです。そうしてこんにち、純心聖母会を母体とする鹿児島純心女子学園も、かつて戦時下に迫害を受けた悲しい歴史を持つ「聖名女学校」の系譜を継承し、この鹿児島の地において次々に新しい「いのち」を得て、保育園・幼稚園及び中学校から大学院までを擁する学園として大きく発展してきたのです。
本学は、そのような重い歴史を背負って、時代を支える豊かな母性像と、社会の良心とも言うべき、人類の発展に貢献できる優れた地球市民像・職業人像をめざしてきたカトリックの教えに導かれている学府です。その理想像として仰いでいるのが聖母マリアの生き方であり、シスター江角ヤス先生は聖母マリアのように「神と人に喜ばれる女性」の育成を願ってやみませんでした。聖母マリアは、みなさんが聖書に親しむ時おのずから浮び上がってくる女性像ですが、その聖母の姿が語っているものをまとめるとおよそつぎのようになりましょう。これは、男女を問わず本学学生に期待される人間像であり、青春像です。
第一は清らかさです。
心の濁りは、どんな人間にも生じます。人間は、欲望に流されて純粋な気持ちをなくしてしまう弱い哀しい存在です。しかし人間は、そんな自分を乗り越えて清く美しく逞しく生きたいと願う存在であります。そのために自らを律し、自らを実現していく力を求めています。聖書は、そんな女性像・人間像を求めて、つぎのように語りかけています。「私の愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何の汚れもない。」(雅歌4章7節)。
現代という時代は、そんな「清らかさ」を、すなわち湧き出ずる清冽の泉を失いつつあります。どこか荒んだ空気が広がりつつあります。本学は、その失いつつあるものを掲げつづけて進もうとする大学です。
第二は優しさです。
聖母マリアは、人びとのために身を挺する労を少しも厭 (いと) わなかった人です。人間は、いつしか自分を中心にして考え、行動してしまう哀しい存在です。私たちの行動の一つ一つを省みる時、どこかに自己中心の欲望が潜んでいます。そういう自分を見つめ、そういう自分を乗り越えて、人と共に生き、人のために祈ることのできる市民像をめざしているのが本学の教育です。すなわち人間としての優しさの教育です。「優しさ」とは、人間の「優秀性」の証 (あかし) とも言えましょう。
第三は賢さです。
私たちが学問を愛するのは、真理の探求を通じて人間と向き合い、人類・社会に貢献できる人材になるためだということはすでに述べました。それは、真理の探求を通じて人類・社会を幸福にする英知を磨くための学問・研究だということです。思慮深く、世界を広く見渡せる人間になるための学問・研究でなければなりません。この賢さこそ人間の証です。
第四は謙虚さです。
すなわち「賢さ」という、人間にとって根本的な徳を身につけることをめざして、そのことによって謙虚な人間になることを願っています。謙遜とか謙虚とか呼ばれる徳は、真理の探求という人間の営みの延長線上に置かれたキリスト教の教えです。深く深く真理と向き合うことによって、すなわち己 (おのれ) の無知を自覚することによって、人間はさらに謙虚になっていく優秀性をも持っています。本学の理念はそれを求めています。 どのような研究も、この謙虚さを失った時必ずや道を誤る日がやってきます。
みなさんが、このような理想の人間像をめざし、自己を研鑽し続けて社会に出る時、みなさんの学問の専門性は、「人間愛」に裏打ちされて、真の「いのち」を持って社会を支えていくことでしょう。